カレー市は、1年間続いた包囲戦の後、1347年に、イングランドの王に街の鍵を渡すため、自らの命を犠牲にすることを受け入れた市民たちの勇敢さに敬意を表したいと考えていた。百年戦争のこのエピソードは、ジャン・フロッサールの『年代記』(1360-1365)のおかげでよく知られており、フランスでもイギリスと同じように広く普及している。

しかし、古いカレーのアイデンティティを確立することが必要だとされるようになる1884年まで、どんなプロジェクトも成功しなかった。と言うのも、街はちょうどサンピエールという隣町と合併しようとしていて、その城壁を解体するための改修に着手していたのだ。

市長オメール・ドゥワブランは9月26日、「全国的に寄付を募って、後で決定する場所にウスタシュ・ド・サン・ピエールとその仲間たちの記念碑を建てよう」と市議会に提案した。何日か経って、ドゥワブランは、パリに住んでいたカレー出身の画家、プロスパー・アドリアン・イサークの紹介で、ロダンと知り合いになった。

その後二人の共同作業は10年続くことになるのだが、ドゥワブランにとっては大きな気苦労が続くこととなる、そんな二人の初めての出会いであった。なぜかと言うと、ロダンは最初から非常に厳しい要求をし、それから記念碑の実現がほとんど失敗しそうになると無関心になった。そのためプロジェクトが成功するためにはかなりの粘り強さが必要だったのだ。

ご存知の通り、「カレーの市民」は、ヌード、フルサイズで鋳造されている。そして服を着せられてから初めて、ピエール・ド・ヴィッサンを含む最初の3人の像の展示が、1887年5月にジョルジュ・プチで行われた。

1900年、決定版の記念碑に加えて、ロダンはピエール・ド・ヴィッサンの断片的なヌード習作を発表した。左足と右肩下を補強した痕跡は、準備状態であることがわかるが、手がない点は、彫刻家の作業方法を示している。

かなり重要なことであるが、彼は、異なる組み立て方法を試す可能性を残しておいたのである。しかしながら、時間が経つにつれて、ロダンは、ほぼダンサーのように微妙にねじれて生き生きとした、この細長いボディの状態を目立たせることを意識するようになった。

1903-1904年頃、彼はムードンの屋外でアワイとコールに像を撮影させた。しかし、その前に、彼はこの像を名誉ある場所である円形の建物の中心に置くことを考えていた。そこはアルマ広場の入り口で、初めはイブを置くことを考えていた場所だった。

彼の回顧展にあたって、過去15年間に彼がこのヌードを作ってきたという選択には、象徴的な価値があった。なぜかというと、それは確かに彼が最初に大きく成功を収めた、石膏による作品グループの一つだったためである(実際には習作であった)。しかし、その習作は1900年に、彫刻の本質を追求した結果、真新しい進化となって現れた。ロダンが彼に与えてきた重要性にもかかわらず、頭も手もないピエール・ド・ヴィッサンは、ロダンが生きている間にブロンズの中に溶け込むことは決してなかったのである。