世界的な彫刻家としてあまりに有名なフランスの彫刻家、
オーギュスト・ロダン(1840年11月12日-1917年11月17日)。
日本においても非常に人気があり、上野の国立西洋美術館をはじめとして、全国の美術館を中心に多数の作品が設置されています。
「生き型をとったのではないか」と言って批判された、ロダンの出世作《青銅時代》
そして、生前は未完に終わった代表作《地獄門》や、世界一有名な彫刻《考える人》などなど。
伝統的な美術教育からは評価されず、
何度も挫折を経験したにも関わらず、
諦めずに制作を続け、彫刻界の改革者となったロダン。
世界的に有名な彫刻家ですが、私たちSDアートとロダンは深い繋がりがあります。
オーギュスト・ロダンの彫刻作品やその特徴、そして、ロダン美術館やロダンの彫刻の購入についてなど、ロダンの秘密について紹介します。
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Contents
①なぜロダンは近代彫刻の祖と呼ばれるのか?
世界的に知られているフランスの彫刻家、オーギュスト・ロダン(Auguste Rodin、1840年11月12日 – 1917年11月17日)。
彼は、しばしばその功績を讃えられる際に、
「近代彫刻の祖」
と呼ばれます。
これは、ロダンの登場前と登場後によって、
「彫刻」が大きく変化したことを意味します。
では、そのBefore/Afterはどんなふうに変化したのでしょうか?
ロダン以前の彫刻は、パトロンから注文されたモチーフ(対象)を、如何に知的に美的に彫刻するか?を競ったものでした。
言い換えれば、提示されたお題に対して、自分なりの解釈や技量で彫刻を制作し、その完成物が持ち主や世間等の美の尺度に合っているか?という点が最重要でした。
しかし、ロダンは、この点を大きく革命しました。
すなわち、
「その対象の”生命”を生き生きと作品に宿らせるものこそが本当の彫刻であり、
そのためにはヴォリュームとマッスのある表現方法で行うべきである」として制作を行いました。
つまり、「何をつくるか?」を”自分で決め”、どうやってつくるか?を「命を吹き込んで生き生きと量塊で表現する」という、WhatとHowの両面でルールを破り、革命を起こしたのです。
これが、近代彫刻の祖と呼ばれる理由です。
②なぜ《青銅時代》は批判され、そして、出世作となったのか?
ロダンの出世作となったのが《青銅時代》という作品です。
しかし、この作品を発表した当初は、大きな批判を受けました。
なぜでしょうか?
それは、前述した通り、
・あり得ないモチーフ
・誇張された表現
この二つの点において、常識から逸脱していたからです。
この青銅時代のモチーフとなったのは、ベルギーの敗戦の将であり、一般人。
当時の彫刻は、「有名な人や貴族」「神話に登場するもの」が基本でした。
その点、どこの誰かもわからないような一般人を、通常の人間と等身大サイズで制作したため、
「生きた人間から型を取るなんてやばいやつだ!」と非難されたわけです。
しかし、ロダンはこの批判を受けて、ひと回り大きな同作品を制作し直します。
人体から型をとったわけではないことを証明したわけです。
そのような経緯もあり誤解は解消され、一躍その名が広まりました。
結果、同作品はフランス政府買上となりました。
これが縁となり、ロダンは《地獄の門》の政策を依頼されることになります。
めでたく一人の彫刻家として歩み始めたのです。
③ロダンはなぜ世界的に有名になったのか?
これ以降、ロダンは数多くの作品制作を依頼されることになります。
その名声は高まり続け、1900年にフランスで開催されたパリ万博では、ロダン館が設けられ、ロダンの大回顧展が開催されました。
この個展によって世界中の人々から認知され、彫刻の注文を受け、国際的な評価が確立されていきました。
この1900年という年は、フランスにとっては、「ベルエポック」(よき時代)にあたり、フランスが世界一の文化芸術都市として栄華を極めていました。さらに、万博に加え、パリオリンピックが同時に開催されたことも相まって、ロダンの影響は世界各国に拡大。さまざまなフォロワーを生み出しました。
そして、当然、そういった動きは、日本にも広がっていきます。
それがかの有名な「白樺派」でした。
④ロダンはなぜ日本に大きな影響を与えたのか?
ロダンの彫刻は、日本でも本当にたくさんの人に愛されています。
例えば、上野の国立西洋美術館の敷地内に、《カレーの市民》《考える人》《地獄の門》などが展示されており、無料で鑑賞できます。
また、静岡県立美術館には、ロダン館と呼ばれるロダンの彫刻を約30点ほど展示しており、その物量に圧倒されます。
その他にも、日本全国の美術館にロダン作品は収蔵されています。
では、ロダンが日本で最初に認知されたのはいつだったのでしょうか?
それが、1905年のことでした。
志賀直哉は、アメリカからある美術雑誌を手に入れ、その時に初めてロダンの作品を目にしました。
白樺派の面々もその作品に熱狂し、「雑誌 白樺」で取り上げることを決めます。
その結果、1910年、オーギュスト・ロダンの70歳の誕生日にあわせ「ロダン特集号」を組むことになり、本格的に日本にロダンが紹介されたのでした。
この白樺によるロダン紹介で日本の芸術家たちは大きく目を開かされます。
そして、荻原守衛、高村光太郎、中原悌二郎といった日本近代の彫刻を切り拓く彫刻家たちがロダンの彫刻に影響を受け、制作を行なっていきました。
荻原守衛《坑夫》
この白樺派を始めとする彫刻家に続いたのが、
戦後の彫刻界を代表する高田博厚、本郷新、舟越保武、佐藤忠良などといった彫刻家たちです。
彼らもロダンから大きな影響を受け、新制作協会という新たなグループにおいて新しい彫刻のムーブメントを形成していきました。
そして、こういった彫刻家たちは、ロダンの影響を受けながらも、自らのオリジナルな表現に昇華していくことにより、日本彫刻史に名を残す彫刻家となっていきました。
例えば、アジア人として初めて、ロダン美術館で展覧会を開催した彫刻家 佐藤忠良がその一人ですが、数々の作品を残しました。
※日本を代表する彫刻家 佐藤忠良とは?
また、こういった彫刻の流れとは別にロダンと意外なつながりがあった日本人がいます。
それが「花子」です。
花子は、ロダンが生きていた明治から昭和初期にかけてヨーロッパで活躍した女優・ダンサーです。
日本文化を紹介する役割を担ったパイオニア的存在でした。あの森鴎外の小説「花子」のモデルでもあります。
花子はヨーロッパを巡業し、ハラキリや武士道といった侍物の舞台で演じ評価され、1906年にロダンと出会い、彫刻のモデルを依頼されました。
ロダンは花子の彫刻を60点程制作しましたが、花子が日本に持ってくることができたのは2点。
この2点の作品は新潟市美術館に所蔵されています。
ちなみに、ロダンのモデルになった日本人は、この花子だけです。
⑤なぜロダンの彫刻は同じものが何体も存在するのか?
ロダンの彫刻で一番有名な作品といえば《考える人》でしょう。
この作品ですが、実は日本でも見ることができます。しかも、有名なところでは、上野にある国立西洋美術館の前庭と、京都国立博物館の屋外空間で、です。
両方とも正真正銘、本物です。
当たり前ですが、このようなことは、絵画ではあり得ません。
例えば、ピカソの代表作である《アビニヨンの娘たち》はニューヨーク近代美術館(MoMA)に所蔵されていますが、当然ここでしか見ることはできません。
世界に1点しかないからです。
しかし、ロダンの彫刻に関しては大きく事情が異なります。
ロダンの《考える人》はどうでしょうか?
上述した通り、上野の国立西洋美術館に所蔵されている他に、パリ・ロダン美術館はもちろんのこと、アメリカやイタリア等にも同じものが存在しており、世界中で20数点ほど存在すると言われています(バージョン違いを含めれば、さらに数が多くなります)
では、なぜ、同じ作品がいくつも存在するということが起こり得るのでしょうか?
その答えは、「原型が存在するから」です。
これにより、複数の同じものが存在することが可能になるのです。
例えば、ロダンのブロンズ彫刻の場合、
①ロダンが粘土などで原型を制作します。
②その原型を元にして、石膏などをつかって型取りします(石膏原型)
③その石膏原型をもとにして、鋳造所の職人たちがブロンズを流し込みブロンズ像を制作します。
以上のようなプロセスを経ます(本当はもう少し工程が複雑ですが簡略化しています)。
すなわち、この原型が存在していれば、物理的にそれが損傷したりしない限りは、ブロンズ像をいくらでも鋳造できるのです。
ですので、ロダンのブロンズ彫刻には、「1/10」とか「3/8」といった表記がされています。
これを、エディションといいます。
平面作品でも、版画作品は、このエディションが表記されていますよね。
版画は、木版画を誰しも学校で経験したことがあるのでわかるかと思いますが、ひとつの「原型」からいくつもの「版画」を刷ることができます。
ですので、各版画にエディションを表記して管理するのが一般的です。
▼彫刻の種類や制作方法については以下のブログもご参照ください
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⑥なぜ亡くなった後なのにロダンの作品は新たに鋳造され、購入できるの?生前鋳造と死後鋳造について
こうした事情により、ロダンの彫刻は同じ作品が複数存在し、世界各国に同作品が点在しています。
以前は、このような複数点を鋳造できる作品について管理が曖昧だった時代があり、
「又抜き」や、品質が担保されていないような粗悪な贋作まがいの作品が市場に出回った時期もあったようです。これは、ロダンの作品はその価値が高いために起こりうることです。現に、過去に、原型などが横流しされたことなどがあったため、偽造等が多い芸術家としても有名です。
このように彫刻が持つ特徴である「原型」。
これさえあればブロンズ彫刻に鋳造が可能です。
つまり、原型の存在次第で、作者が亡くなった後にも作品を鋳造することが可能とも言い換えられます。
これは死後鋳造(Posthumous casting)と呼ばれています。
そして、想像に難くないでしょうが、長い間、物議を醸してきました。
作家が亡くなった後に、作家の目を通さずに作品を鋳造し販売するということに対して、
「オリジナル作品と呼べるのか?」という議論が起こったからです。
例えば、フランス人の彫刻家で、動物の彫刻を制作するフランソワ・ポンポンは、
死後鋳造を明確に禁止するよう遺言しました。
しかし、こういった遺言が守られず、死後鋳造作品を制作したことが明るみになったことで、大きな問題になったことがありました。
一方で、ロダンはどうかといえば・・・
彼の死後、原型などの管理はフランス政府が行うよう遺言しました。
さらに、ロダンは、彼の死後もその作品を世界に広めていきたいという遺志を明確にしていました。
しかし、とはいうものの、一つの作品を無限に鋳造しては、何が本物で、何が複製なのか、といった議論を惹起します。
そういった点を議論していった結果、結論として、
フランスはその鋳造点数に法的な制約を課すこととし、
法律により12点までをオリジナル作品とし、販売できるという形にしました。
この作品については、ロダン美術館の理事会の承認の下、鋳造点数が厳しく管理され、原型から鋳造され販売されています。
弊社は、これまで30数年にわたるロダン美術館との親交により、
こういったロダン美術館が所蔵する作品を日本で販売することができるのです。
▼詳しくは以下をご参照ください。
⑦なぜロダンはそんなにたくさんの作品を制作できたの?
「アセンブリング/アッサンブラージュ」
オーギュスト・ロダンは、1917年11月17日にその生涯を閉じました。78歳でした。
最後まで意欲的に制作に励んだロダン。
そのあとには、彼の弟子として後年評価される素晴らしい彫刻家、アントワーヌ・ブールデルやシャルル・デスピオなどが名を連ね、ロダンを深く尊敬していました。
そのように巨匠として評価されたロダンでしたが、当時、その制作手法の斬新さも彼の特徴のひとつでした。
彼が得意とした手法に、
「アッサンブラージュ」
があります。
英語では、「アセンブリング」、日本語で言えば、「組み合わせ」「積み上げ」のような意味があります。
例えば、ロダンの作品として有名な《地獄門》をよく見てみましょう。
すると、その門の一部に、《考える人》《影》などの、別個で発表された作品が組み込まれていることがわかります。
ロダンは、このように、ある作品から一部を切り取り独立させたり、
また逆に、ある独立した作品を新たに作品に組み込んだり、といった手法で制作を行っていました。
これをアセンブリングやアッサンブラージュと言います。
このような制作方法を導入したのは、彫刻家としてロダンが最初であり、非常に画期的な手法でした。
この手法を取り入れ、20世紀以降に新しい彫刻を制作していったのが、パブロ・ピカソやフリオ・ゴンサレスといった巨匠たちでした。
20世紀からはこの「アセンブリング/アッサンブラージュ」といった制作方法により革命的な彫刻が次々と生み出されていきました。
そういった意味でも、ロダンは先駆けであり、彫刻界におけるパイオニアなのです、
番外:パリ・ロダン美術館の成り立ちと今
フランス国立ロダン美術館@アンバリッド。このほかに、ムードンにもロダン美術館があり、ロダンの墓がある。
ご覧頂いたように、日本でも本当に多くの方に愛されているロダンの彫刻。
彼の作品は世界中の美術館や屋外空間に所蔵・設置されていますが、やはりパリのロダン美術館は圧巻です。
ロダンの死後、ロダンがアトリエとして使用していたパリのビロン邸をフランス政府が買い上げることになり、ここにロダンが自身の作品を寄贈することを提案しました。
結果、国立ロダン美術館として美術館をオープンすることになりました。
また、パリ郊外にあるムードンにもロダン美術館がありますが、ここにはロダンの墓があり、また、その地下空間には石膏原型が所狭しと置かれています。
ロダンは生涯で7千点とも言われる作品を制作しました。
これは並大抵の人間ができる数量ではありません。ピカソと並び、怪物とも言えるエネルギーを示しているのではないでしょうか。
ロダン美術館のその圧巻の作品群は、彼のその怪物ぶりが十分すぎるくらいに理解できる物量の美術館です。
ちなみに、2016年、ロダン美術館の数年に及ぶリノベーションがようやく完了し、
今ではリニューアルオープンしたロダン美術館の姿をみることができます。
私もオープンに伺いましたが、本当に素晴らしい美術館であることを再認識しました。
館長代理に案内してもらい、様々な作品のエピソードを聞きながら鑑賞した作品群は、死後100年を経たとは思えないほどの生命感を、輝きを、放っていました。
ということで、ロダンの7つのなぜから、彼の「何がすごいのか」を読み解いていきました。
ロダンの彫刻については、拙著『西洋美術は彫刻抜きには語れない 教養としての彫刻の見方』(翔泳社)でさらに詳しく紹介しています。ロダンだけでなく、西洋の彫刻がどのような変遷を辿ってきたのか、詳しく知りたい方はぜひご一読いただけますと幸いです。
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