佐藤忠良(1912年7月4日 – 2011年3月30日)。
日本を代表する彫刻家の一人として知られています。
2022年、この佐藤忠良の彫刻作品40点と平面作品百数十点を見ることができる展覧会が、日本全国を巡回します。
2022年7月16日(土)〜9月19日(月・祝)まで、群馬県立館林美術館で開催されます。
http://www.gmat.pref.gunma.jp/ex/ex_next.html
その後、
・いわき市立美術館(2022年11月5日(土)-12月18日(日))
・宮城県美術館(2023年2月4日(土曜日)~3月26日(日曜日))
へ巡回します。是非、ご覧いただけましたら幸いです。
この記事では、佐藤忠良が日本を代表する彫刻家となった理由を7つの観点から紹介します。
Contents
1.故郷の人々に親しまれている点:日本一の佐藤忠良作品の所蔵数を誇る美術館とは?
宮城県出身の佐藤忠良は、特に、宮城の方々に「忠良さん」と呼ばれ、県民に親しまれています。
このように親しまれている彫刻家は珍しいのではないでしょうか?
この親しみやすさこそが、佐藤忠良が日本を代表する彫刻家となった理由のひとつかと思います。
出身地の宮城県美術館には、「佐藤忠良記念館」が併設されています。
約600点の彫刻作品が収蔵され、日本で最も多くの所蔵数を誇っています。
また、他にも、
・滋賀県の佐川美術館の佐藤忠良館
・札幌芸術の森「佐藤忠良記念子どもアトリエ」
などの主要所蔵美術館を始めとして、国立近代美術館、国立国際美術館など、日本全国各地に佐藤忠良の作品が収蔵、展示されています。
(宮城県美術館、カンカン帽)
2.終生の友であり、切磋琢磨したライバルの存在
佐藤忠良は、画家になるため上京しますが、ロダンやデスピオなどの彫刻に影響を受け、彫刻家に転向します。
1934年、東京芸術大学彫刻科に入学しますが、このとき、終生の友でありライバルになる「舟越保武」と出会います。
舟越の存在は佐藤忠良にとって、作風は違うものの、同年代の存在として意識し、常に切磋琢磨してきた人でした。
二人の作風は、具象彫刻ではあるものの、
・佐藤の作品は「動的」で「時間の流れ」をブロンズに込めたのに対して、
・舟越は、キリスト教を題材にした聖母や女性像といった、非常に優美な表現を追求
するなど、良い意味で異なっていました。
二人の友情は、舟越が亡くなるまで、生涯を通じて続きました。
(舟越保武、26聖人殉教者像、長崎県」)
※舟越保武について詳しくは以下のブログを参照ください ↓
3.日本人としての表現の開拓:1952年の出世作とは?彫刻界のスターへ
大学卒業後、本郷新や柳原義達などの佐藤忠良の兄貴分的な存在の彫刻家たちとともに、新制作協会の彫刻部門を設立するなど、新たな時代をつくる動きを加速していきます。
しかしながら、戦火に巻き込まれ、召集されるとともに、シベリア抑留を経験。1948年にようやく日本に帰還します。これ以降、佐藤は本格的に制作を再開することになります。
そして、1952年制作した群馬の人が一躍脚光をあびることになります。
以下、宮城県美術館HPから引用した群馬の人の文章です。
少年時代から終戦後にかけて多くの群馬県人と関わりを持ったのちに、知己となった群馬出身の詩人、岡村喬をモデルとしてこの首が誕生しました。一般にこの作品は「日本人による日本的日本人の最初の表現例」と言われます。それは、ヨーロッパ彫刻(最初はイタリアの、後にロダンを中心としたフランスのもの)を学ぶことから出発した日本の近代彫刻史の上で、その影響を払拭し、質朴な市井の日本人の姿の本質を簡潔に表現しているからにほかなりません。その意味で、この首は岡村、そして群馬の人の像である以上に、典型的・象徴的な日本人の顔であるといえるでしょう。
(引用元:宮城県美術館HP http://www.pref.miyagi.jp/site/mmoa/mmoa-collect043.html)
それまで西欧的な表現に終始していた作品から脱却し、
「日本人による日本人らしい彫刻」と注目を浴び、これ以降、佐藤忠良が彫刻界の中心人物となっていきます。
ここに、戦後の、日本彫刻の近代が、ようやく幕開けたのです。
4.佐藤忠良作品の様々な作風とは?
これ以降、佐藤は、イタリア彫刻の影響を受けて制作した「うずくまる裸婦」が、国家買い上げとなり、国立近代美術館に収蔵されます。
また、釧路市の幣前橋には、本郷新、柳原義達、舟越保武らとともに、道東の四季を制作し、
「裸の彫刻を屋外空間に設置するなんて本当に良いのか?」という点において、町民を巻き込んだ議論が巻き起こりました。
今では当たり前のようにこのような作品が設置されていますが、1960年当時は物議が巻き起こりました。
そして、1970年代に入ると、佐藤忠良の代表シリーズである「帽子シリーズ」を制作するなど、日本人彫刻家の第一人者となっていきました。
ちなみに、帽子シリーズのモデルは、佐藤忠良の愛弟子でもあり、制作を長年にわたってサポートしてきた、彫刻家 笹戸千津子です。佐藤忠良イズムを継承した彫刻家として、多くの作品を制作し続けています。
※笹戸千津子については以下のブログをご参照ください↓
5.アジア初!フランスのロダン美術館で展覧会を開催
1981年には、アジア人として初めて、フランスのロダン美術館で個展を開催しました。
その時の様子を佐藤忠良は以下のように語っています。
「パリの市立美術館で個展を開かないかという話があるのですが』アトリエで電話をとった私は、初めだれのことかわからずに聞き返したが、私の個展と知って、ウソのようだが、ガタガタと足が震え始めた。
そのあとで話はさらに大きくなって、会場もロダン美術館の教会風の別館でということになった。それこそご先祖さまの屋敷内であり、日本人はもちろん初めてだという。私にとっては奇跡のような話で、日々高まる緊張の度合いも並みたいていではなかった。
(佐藤忠良自伝 つぶれた帽子より引用)
その他にもニューヨークのウィルデンシュタインギャラリーで個展を行うなど、世界的な知名度を誇るギャラリーでも大変好評を博し、日本を代表する彫刻家となっていきました。
その後も精力的に制作を続けました。特に、毎日のデッサンの習慣は欠かさなかったと言います。
佐藤忠良は、「おおきなかぶ」の絵を描いた作家としても広く認知されており、
これまで生み出してきた作品は多くの人々に愛されています。
そして、東日本大震災直後の3月30日にその生涯を閉じました。
6.日本全国での展覧会
特に1980年代には、日本で10以上の美術館で「佐藤忠良のすべて」という展覧会を開催し、その名を全国に知らしめていきました。
また、2011年に亡くなってから約2年後、弊社が企画する「生誕100年/追悼 彫刻家 佐藤忠良展」を4美術館(佐川美術館、北海道立旭川美術館、宮城県美術館、札幌芸術の森美術館)で開催し、多くの方にご来場いただきました。
佐藤忠良という彫刻家がいかにして日本彫刻の近代を形成してきたかを、今一度総覧する機会となりました。
佐藤忠良の出身地である宮城県、そして、一時期を過ごした北海道、更に、佐藤忠良の作品群を多く所蔵する佐川美術館。
佐藤忠良という彫刻家が日本全国で大きな影響を与えてきた足跡を再度見つめ直したこの生誕100年展。
多くの人たちに見守られた展覧会となりました。
展覧会カタログ↓
7.屋外に飛び出した彫刻たち
最後に、佐藤忠良の功績のひとつとして、野外彫刻(パブリックアート)があります。
佐藤忠良が活躍した20世紀の後半は、日本にとってはバブル期にあたり、大変多くのブロンズ彫刻が野外空間に進出した時期でもあります。
その成功例のひとつとして、仙台市彫刻のある街づくり事業があります。この一環で、台原森林公園には、第1期の第一号作品として、佐藤忠良作の緑の風が設置され、周辺環境と見事にマッチした素晴らしい景観をつくり出しています。
その他、全国各地の野外スペースに、佐藤忠良作品が残っています。
「彫刻公害」などと揶揄されることもありますが、今後も、街中に展示されている彫刻たちが、ふっと人々の目に止まり、そして、つかの間の癒しを届け続けてほしいと思います。
佐藤忠良さんが美術の必要性について平易な言葉で紹介した「美術を学ぶ人へ」について、以下の動画で解説しています。
佐藤忠良 <略歴>
- 1912年 宮城県に生まれる
- 1939年 東京美術学校彫刻科塑造部卒業。制作派協会彫刻部創立に参加
- 1960年 第3回高村光太郎賞を受賞
- 1974年 第15回毎日芸術賞を受賞。昭和48年度芸術選奨文部大臣賞を受賞
- 1975年 第6回中原悌二郎賞を受賞
- 1981年 フランス国立ロダン美術館の要請で、『佐藤忠良』展を開催、渡仏
- 1982年 個展(ニューヨーク・ロンドン)、ローマ・アカデミア・ディ・サン・ルカ会員
- 1989年 昭和63年度朝日賞を受賞
- 1990年 宮城県美術館に[佐藤忠良記念館]開館
- 1991年 第41回 河北文化賞受賞
- 1995年 宮城県大和町ふれあい文化創造センター[佐藤忠良ギャラリー]開設
- 1998年 滋賀県守山市に佐川美術館〔ブロンズの詩 佐藤忠良館〕開館
- 2008年 札幌芸術の森野外美術館[佐藤忠良記念子どもアトリエ]開設
- 2011年 3月30日、東京都杉並区のアトリエにて逝去。享年98(歳)
- 2012年 生誕100年佐藤忠良展開催。
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