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ハトやカラスの彫刻を街角で目にしたことがあるかと思います。

今回は、この柳原義達氏をご紹介します。

 

 

柳原義達とは?

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柳原義達(やなぎはら よしたつ、1910年3月21日-2004年11月11日)は、兵庫県出身日本を代表する彫刻家の一人として、裸婦立像や鳩像などの作品で知られ、佐藤忠良舟越保武らと共に戦後の日本彫刻界を牽引してきました。

日本美術学校入学後には、朝倉文夫らに師事しますが、高村光太郎や清水多嘉示といった、ロダンの生命主義に強く影響を受けた彫刻家たちに惹かれるようになってきました。

1939年、本郷新や、東京美術学校の後輩で3期下の佐藤忠良や舟越保武らと共に、新制作協会・彫刻部創立。その後毎年、新制作展から出展するようになっていきました。

その後、43歳で4年間渡仏したのを機に、それまでの自身のアカデミックな作品から脱却するように精力的に制作を行うようになっていきました。

この当時に出会った、ジャコメッティやリシェ、マリーニなどの彫刻家の作品は、柳原の制作に大きな影響を及ぼしました。

その後、動物愛護協会から鳥の作品を制作するよう依頼されてから、鳥に大きな関心を抱くようになり、鳩や鴉を制作。

《犬の唄》、《赤毛の女》などと共に代表作となりました。

このような鳩やカラスの独自の造形表現を切り拓き、戦後を代表する彫刻家のひとりとして認められるようになっていきました。

 

柳原義達の作品

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■犬の唄

柳原義達の代表作のひとつである「犬の唄」(1961年)(写真はこちら

この作品について、元三重県立美術館館長の毛利伊知郎氏(現・豊橋市美術博物館館長)が以下のように述べている;

「犬の唄」(シャンソン・ド・シャン)とは、直接的には印象主義の画家エドガー・ドガの水彩作品《犬の唄》(1876-77年頃)に由来している。それは、普仏戦争後のパリのカフェ・コンセールに出演していた歌姫エンマ・ヴァラドンがうたった、戦争に敗れたフランス人のレジスタンス精神を込めたシャンソンであったという。敗戦後のやり場のない屈辱、不満、自嘲、虚しさを柳原は、《犬の唄》に託したのである

(引用元:http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/55944039015.htm)

■鳩や鴉の作品

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この鴉と鳩についても、毛利氏の文章より引用します;

鴉が柳原作品にはじめて登場したのは1966(昭和41)年、神戸市に設置された《愛「仔馬の像)》、第7回現代日本美術展出品作《風と鴉》であった。その前年に柳原は鶏を主題とする作品を制作していたが、鴉が主題として選ばれたのは、「昭和四十年、神戸市の動物愛護協会から動物愛護にちなんだ記念碑の制作を依頼されたのがきっかけ」という(註20)。この記念碑(《愛「仔馬の像)》)を制作するための取材で、動物園の他、北海道へも足をのばした柳原は鴉に強い愛着を抱くようになり、自宅でも飼育するようになったという。

一方の鳩は、現存作品を見ると1962年に制作されたのが最初である。この時の鳩はきじ鳩であったが、柳原は後に好んで孔雀鳩を主題とするようになり、1970(昭和45)年代以降に制作される道標シリーズに登場するのは全て孔雀鳩である。

(引用元:同上)

 

■道東の四季<秋>

 

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北海道幣前橋に設置されている作品。佐藤忠良、舟越保武、本郷新と共に、道東の四季を彩る。

 

■岩頭の女(がんとうのひと)

岩手県陸前高田市立博物館の近くで屋外展示されていた岩頭の女。311の東日本大震災の発生によりこの一帯が津波による被害を受けました。この作品も例外ではありませんでした。

 

東日本大震災の津波被害を受けた柳原義達氏作のブロンズ像「岩頭の女」。修復されたが足首から下と左腕の肘から先は欠けたままだ

(中略)

宮城県の石巻文化センターは一階の美術品収蔵庫に海水や汚泥が流れ込んだ。彫刻は欠け、絵画は汚れた。だが、二階の免震台の上にあったため壊れなかった作品がある。太平洋戦争の激戦地、ガダルカナル島で三十一歳で戦死した地元出身の彫刻家高橋英吉による「海の三部作」。「潮音(ちょうおん)」など海で働くたくましい男たちを表現した木彫りの三体だ。

同県美術館の三上満良(みつろう)副館長(61)は「震災でも無事だったことに石巻市民は特別な感情を持っている。復興のシンボルとして、この作品の力強さを東京の人にも見てほしい」と強調する。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/tohokujisin/list/CK2016061102100014.html

(東京新聞:「東北の美)

 

柳原義達の展覧会・カタログ

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日本の近代彫刻の歴史を切り拓いた彫刻家のひとり、柳原義達。

日本においても度々、大規模な巡回展が行われてきました。

弊社の前身である会社が企画した「道標ー生のあかしを刻む 柳原義達」展は、1995年〜1996年にかけて行われました。

開催館は全8館にもおよびました。

宮城県美術館(1995年 11〜12月)、茨城県近代美術館 (12〜1月)、佐倉市立美術館(1996年2〜3月)、山梨県立美術館(4〜5月)、三重県立美術館(5〜6月)、札幌芸術の森美術館(6〜7月)、長岡市美術センター(7〜8月)、神戸市立博物館(9〜10月)。

図録 柳原義達展

道標-生のあかしを刻む 柳原義達展

展覧会カタログはこちらから。

柳原義達先生の制作の軌跡を網羅した展覧会。

日本では、三重県立美術館に柳原義達記念館があり、そこで氏の作品を網羅的に鑑賞できます。

 

余談ですが、2014年に弊社が開催した展覧会「スペインの彫刻家 フリオ・ゴンサレス展」ですが、

こちらは彫刻家舟越桂展との共催で、三重県立美術館の柳原義達記念館で開催されました。

その時の模様は以下よりご覧になれますので、ぜひ読んでみてください。

 

スペインの彫刻家 フリオ・ゴンサレス(Julio Gonzalez)/展覧会実現までの道のり

 

柳原義達の略歴

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1910年 神戸市に生まれる

1928年 兵庫県立神戸第三中学校(現長田高校)卒業。卒業後3年間、京都に住み藤村良一に日本画を学び、福田平八郎の批評も受けていたが、ロダン、ブールデルの作品の複製図版に接したのを機に、彫刻家を志す

1936年 東京美術学校彫刻科を卒業。在学中は朝倉文夫に師事

1937年 国画会同人

1939年 本郷新、佐藤忠良、舟越保武らと共に国画会を脱退。新制作派協会に合流し、彫刻部の創立に参加

1953年 渡仏。ロボ、マルタン、セザール、リシェらの知遇を得る。1957年帰国

1958年 第1回高村光太郎賞受賞

1970年 日本大学芸術学部美術学科、主任教授に就任

1974年 第5回中原悌二郎賞を受賞

1994年 第35回毎日芸術賞受賞

1996年 文化功労者

2003年 三重県立美術館に柳原義達記念館開設

2004年 死去(享年94歳)

日本を代表する彫刻家 舟越保武 / その生涯と作品とは?
イタリアの彫刻家 エミリオ・グレコ / 彫刻のあるまちづくり「夏の思い出」