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イブ・クライン/Yves Klein(1928年4月28日 – 1962年6月6日)はフランスのアーティスト。

「青」という色を好んで使用したため、自分だけの青「インターナショナル・クライン・ブルー(IKB)」を作りだしたアーティストとしても知られています。

その生涯はわずか34年あまりでしたが、多くの傑作をつくりだし、世界的にも高く評価されています。

今回は、日本との関わりも深いアーティスト イヴ・クラインについて紹介します。

 

Contents

アーティスト イヴ・クライン(Yves Klein)の誕生

1928年、イヴ・クラインは、両親が画家の家庭に生まれ、海の見える街フランス・ニースで育ちました。

生まれ故郷であるニースの海は、後に彼が作り出した青色「インターナショナル・クライン・ブルー」にも影響を与えたと言われています。

1940年代後半から絵を描き始め、19歳のときに、ふと空を見上げた際に、宇宙を取り巻く無限に広がる非物質的な空間を垣間見ることでインスピレーションを得ました。イヴ・クラインは、このビジョンを表現するために、「強烈な明るさを持つウルトラマリン」一色だけを使用して絵を描きました。

この絵は、線やイメージの跡をまったく含まない表現であり、見るものを「色そのもの」に没頭させるものでした。

 

二人の盟友との出会い。そして、”世界を分割”し無限性を手にいれる

1942年〜1946年:盟友クロード・パスカル、アルマン、フェルナンデスとの出会い。柔道、ジャズ、宗教

イヴ・クラインは、Ecole Nationale de la Marine Marchand and the Ecole Nationale des Languesで学びました。

このときに、詩人クロード・パスカルと彫刻家アルマン・フェルナンデスと出会い、親友となります。

そして、彼らと柔道を習うとともに、ジャズ音楽や、密教などの東洋の宗教について興味を深めていきました。

イヴ・クラインは、この頃、アーティストとして大きな分かれ目となる体験をします。

それは、パスカルとアルマンと共にニースのビーチで寝そべっているときのこと、三人で「世界を分割する」ことでした。これにより、イヴ・クラインは、空と無限性を手に入れ、アルマンは大地と豊かさ、パスカルは空気を手に入れたのでした。イヴ・クラインはこのときのことを以下のように語っています;

In 1946, while still an adolescent, I was to sign my name on the other side of the sky during a fantastic “realistico-imaginary” journey. That day, as I lay stretched upon the beach of Nice, I began to feel hatred for birds which flew back and forth across my blue sky, cloudless sky, because they tried to bore holes in my greatest and most beautiful work.(Yves Klein, The Chelsea Hotel Manifesto, New York, 1961.)

この体験以降、クラインは「Void」(何もない空間、空虚)を所有することになり、「無限」をテーマにして制作に取り組んでいきました。そのテーマは絵画はもちろんのこと、パフーマンスや音楽での実験的な試みにまで広がっていき、1949年には、”The Monotone-Silence Symphony”を制作しました。

■The Monotone-Silence Symphony

 

この作品(曲)は、「20分間の瞑想的な静けさ」のあとに、「単一のコードでの20分間の演奏」を行うという試みでした。

モノクロームの青い空から放たれる、宇宙のハーモニーを「音」にした作品を生み出しました。

 

イヴ・クラインの日本との関わり「柔道」、批評家ピエール・レスタニーによる援護、そして、「青の時代」の始まり

1948年〜52年:ロンドン修行時代

イヴ・クラインは、パスカルと共にロンドンに拠点を構えます。このとき、額装屋でアシスタントをしながら、顔料を用いた着色の技術などを学びました。

 

1953年:日本との関わり

かねてより柔道に励んでいたクラインは、日本に旅行し、東京の講道館で黒帯を取得。そして、その際に彼の第2回目となるプライベートな展覧会を行い、モノクロームの絵画および”The Manifesto of the Monochrom”(モノクロームのマニュフェスト)を発表し、「モノクロニズムは、自由への扉を開き、色の無限の存在に没頭させる可能性があるもの」と表明しました。

 

1956年:モノクロームとInternational Klein Blue

クラインは、パリのアートシーンで一躍有名となる、物議を醸した展覧会をGalerie Colette Allendyで開催しました。

展覧会名は、「Yves: Propositions Monochromes. 」

20のモノクロームの絵画が展示され、青、赤、黄色およびオレンジが並びましたが、観客の反応は非常に批判的なものでした。

しかし、当時有名になりつつあったフランスの批評家「ピエール・レスタニー」はすぐさま、イヴ・クラインのモノクローム作品の魅力を理解し、作品を評価しました。また、その評価を受け、イヴ・クラインは青という色の可能性にさらに没頭していきました。

結果、イヴ・クラインはとうとう、まばゆい青「International Klein Blue」を特許登録しました。

これがクラインの「青の時代」の幕開けとなりました。

クラインは、IKBはスピリチュアルなパワーや非物質性を完璧につくりあげることができる手段として確信していました。

それまでの青、「ウルトラマリン」という色は、キリスト教における精霊のシンボルカラーであり、無限に広がる空や海の深さを表すものだったことから、青の可能性を確信していたのでしょう。

1957年、ミラノのGallery Apollinaireにて、まばゆいばかりの青、IKBで制作した絵画11点を展示しました。作品はすべて、78 x 56 cmで統一され、壁から20cmの距離をとって吊られ展示されました。小さなギャラリーを目一杯使用して展示が行われました。ちなみに、作品のひとつは、同じ芸術家であるルーチョ・フォンタナに購入されました。

 

晩年:「空虚」展、宇宙進化、人体測定、火の絵画、そして、死去

1958年:「空虚」展

物議を醸した展覧会「Le Vide」(The Void/空虚)展を、パリのIris Clert Galleryで開催しました。

この展覧会は、ギャラリー内には何も展示されていない、いわば「空っぽ」の展覧会でした。

イヴ・クラインは、大きなキャビネット以外すべてをギャラリーから取り除き、表面を白く塗り、そして、夜のオープニングのために、招待状を制作して準備しました。

ギャラリーの窓は青く塗られ、青のカーテンがエントランス・ロビーにかけられ、ブルーのカクテルが振る舞われました。結果、3000人以上の人々がこの空っぽの部屋に押し寄せる事態となりました。

 

1960年:自然のエレメントへの傾倒

パリのInternationale d’Art Contemporainギャラリーで、パフォーマンスを行いました。

この時に行われたのは、裸の女性のモデルがIKBを身体に厚く塗りつけ、その身体をギャラリーの壁に押し付けて痕跡を残すといったパフォーマンスを行いました。

この時期にイヴ・クラインが夢中になっていた「火」「水」「海綿」「砂利」といった自然のエレメントをキャンバスや彫刻に使用していき、結果として、炎の絵画やモノクロームのレリーフやIKBの彫刻などを制作し、無限の空間といった「宇宙的なアイデア」を表現していきました。

 

1962年:突然の死去

絵画はすべて一律にIKBで着色されていたにも関わらず、クラインは、その絵画に様々な手法を適用させる試みを行ってきました。

まず第一に、異なったローラーやスポンジを使用して、「多様な表面」を表現しました。

この実験は、後の多くの作品へと応用されていきますが、その中でも、「生きているブラシ」がその集大成といえます。この生きているブラシは、裸の女性が青の絵画に包まれ、大きなキャンバスの上を転がったりしてイメージをつくりあげていくというものでした。この作品をイヴ・クラインは、「Anthropometry」(人体測定)と名付けました。

そのほかにも、車の屋根にキャンバスをくくりつけ、イヴ・クライン自身が時速70マイルで運転し、雨を「記録する」というメソッドで絵画制作したり、ガスバーナーでキャンバスを焦げさせるようにして描くといったような試みを繰り広げていきました。

この年には、アーティストのRotraut Ueckerと結婚しましたが、そのわずか数カ月後に心臓麻痺で亡くなりました。34歳でした。

後にフランスにおいてイヴ・クラインは、 ヌーヴォーリアリズムの重要な先駆者急速に認知されるようになり、ピエール・レスタニーという優れた批評家によってその評価に拍車がかかってきました。ヌーヴォーリアリズムは、終生の友であったArman Fernandezに加え、Martial Raysse、César Baldaccini、Daniel Spoerriなどを伴って進んでいきました。

 

本当に斬新な試みを継続してきたイヴ・クラインですが、この先生きていたらどのような作品を作っていたのだろうと、「タラレバ」を考えてしまうのは私だけではないのではないでしょうか?

本当に先駆的で宗教的、哲学的であった彼の作品は、素晴らしいものだなと感じます。

 

イヴ・クラインの作品

 

「宇宙進化」/ Cosmogonies

キャンバスを風雨に曝して、大気の変化を記録

こちらから作品を見ることができます↓

http://www.yveskleinarchives.org/works/works2_fr.html

Cosmogonies (by Yves Klein’s archives)

 

「人体測定」/ Anthropometrie

単色のインクを裸体に塗りつけた人間がカンバスに痕を残していくパフォーミングアート。

■Blue Women Art – Yves Klein (1962)

「火の絵画」

火炎放射器で画布に人間の痕跡を焦げ付けて制作する作品。

■archivioARB – Yves klein 1960 – antropometrie(火の絵画については、2分15秒すぎから)

イヴ・クラインの家具

上記の作品以外にも、家具を手がけるなど、幅広い活動を行いました。

IKBや、ローズ・ピンク、ゴールドといった色を用いて作られたテーブルは、革新的で豪奢な雰囲気がありとても素晴らしい

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イヴ・クラインの作品の値段

イヴ・クラインの絵画「RE 46 (1960) 」は、2006年5月のクリスティーズのオークションに出品され、彼のモノクロームのブルースポンジの絵画は、$4,720,000で競り落とされました。

2013年には、ブルースポンジの作品が2200万ドルをつけ、彫刻家として最高値を更新しました。

 

2017年3月まで、Tateで回顧展が行われるなど、今後も世界的に評価が高まっていきそうなイヴ・クライン。

日本でも多くの人に知っていただけたらと思います。

 




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https://sdart.jp/artprogram


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