2015年6月〜2016年4月まで、全国4美術館(長崎県美術館、岩手県立美術館、世田谷美術館、三重県立美術館)を巡回した、
弊社SDアートが企画した展覧会「スペインの彫刻家 フリオ・ゴンサレス展」。
(今回の展覧会では、ゴン「ザ」レスではなく、ゴン「サ」レスと表記します。本投稿については、キーワード検索において、ゴンザレスの方で辿ってくる方が多いのでこちらに合わせています)
フリオ・ゴンサレス(1876年9月21日〜1942年5月27日、Julio Gonzalez)は、スペインの彫刻家であり、ピカソに彫刻を教えた人物として、スペインでは広く知られた存在です。
キュビズム、ダダイズム、シュルレアリスムなどの様々な芸術運動の渦中にあったパリにおいて画家として出発し、次第に彫刻 へ傾倒していきました。
この時代に絵画が手にした表現の自由を、彫刻でも実現しようと模索するアーキペンコ、ローランス、デュシャン・ヴィヨン、リプシッツ、ザッキン等とともに、それぞれが異なる独自の立場で、彫刻の造形の課題にとり組んでいきました。
ゴンザレスは、金属板の構成により、面と面の関係、陰影、切り取られた空間によるヴォリュームの探求等を進め、20世紀における彫刻の現代性を追求し、孤高の高みに達したと評されています。
創意的な探求と高い観念によって鉄素材を使った彫刻を創始し「鉄の作家」として知られますが、その素材は、作家にとっては必ずしも絶対的なものではありませんでした。
鉄以外にもブロンズや銅板、真鍮・石などの作品が多数残されていて、見るものを楽しませます。
スペイン・バレンシアには、ゴンサレスの作品を多数所蔵・展示する現代美術館(IVAM)があり、多くの人々に親しまれています。
しかし、日本においてはその存在についてほとんど知られておらず、
「知る人ぞ知る」彫刻家でした。おそらく、もう2度と実施されることが無いであろう、ゴンサレスの大規模な巡回回顧展。
実はこの展覧会が開催されるまでには、長い長い年月がかかりました。
その間、四半世紀、25年。
備忘として、その歴史を残したいと思います。
Contents
今回開催された「スペインの彫刻家 フリオ・ゴンサレス展」の作品所蔵先との関わり
この展覧会は、ゴンサレスの彫刻および金工品60数点に加え、版画や素描30点ほどで構成される回顧展となりました。
この展覧会開催の発端となったのは、
弊社顧問である堀越誠と世田谷美術館館長の酒井忠康さんとが、
ゴンサレスの著作権者と出会ったことから始まります。
ゴンサレス作品の素晴らしさ、そして、彼の特徴的な作品であり、歴史に残る
「鉄彫刻」という新たな領域。
1900年代、ピカソなどのアーティストと共に時代を切り開いた彫刻家の境地は、
また最近になってその真価が見直されています。
そして、この「空間へのドローイング」とも言える彼の彫刻は、
現代のアーティストたちの流れへと脈々と続いていく原点があります。
「是非、この彫刻家の展覧会を日本で実現したい!」
私の父である堀越誠と、日本の美術界のドンが、実現のために動き始めました。
遡ること25年ほど前のことでした。
展覧会開催のハードル
ではなぜ、実現までにここまでの月日がかかってしまったのでしょうか。
それは、
「ゴンサレスなんて知らないし!」ゆえに「人が集まらない!」
この言に尽きます。
彫刻展というのは、敬遠される傾向にあります。
それは、「人が集まらないから」。
ゴンサレスもそのひとりでした。
しかし、長い時間をかけて、ようやく少しずつ機運が醸成され、
また、とても大事なことですが、
「ゴンサレス展を是非やりたい!」
と言っていただける学芸員の方達が現れて、
そして、ようやく、開催する目処がたってきたのでした。
これが2012年頃のことです。
実現までの数々の障害 〜突然の館長辞任〜
実は、この展覧会が4館で開催されることは、
2013年頃には決まっていました。
その後、ゴンサレスの版権者のGrimminger氏はもちろんのこと、
IVAM側とは順調に交渉を終え、契約締結の一歩手前までたどり着くことができました。
これが、2014年4月でした。
しかし、ある日突然、当時のIVAMの館長から連絡が来ました。
「実は私は館長職を辞することになった。
ついては、契約を早くしないといけない」
そんな内容のメールでした。
実はこの時の「突然の辞職」の意味は、後ほどになってわかるのですが、
この時は「理由はわからないけれど、しょうがないな」と思い、当時はまだ、時間的にも余裕があったため、大丈夫だろうと思っていました。
実現までの障害 〜交渉難航〜
しかし、実はここからが長い道のりでした。
結局、この後、新たな館長が決まるまでに半年以上かかりました。
公募により、人材を募集するというプロセスを経て、館長を決定するという順番を踏んだからです。
この半年の間、私たちは先方と交渉を進めることができず、
大きく時間的にロスをしてしまいました。
結局、館長が決定したのは、7ヶ月後の2014年11月頃。
ようやくここから交渉を再開することになりました。
もうこの時点で、開催まで7ヶ月しかありません。
ここから再度交渉が始まるのですが、
やはり館長が変わると、その館長の考え方ややり方でことを進めようとするため、
これまで合意したことで重要なことについて、大きな変更を要求されることとなりました。
先方は作品を貸し出す側であり、こちらは作品を借りる側。
私たちとしては、作品を貸し出してもらえない限り、展覧会を実施することができません。
色々とあの手この手で交渉を行ってきたのですが、
やはり「貸す側」が絶対的に強く、また、一度も面会したことがない状況で、お互い、不信感が募って行きました。
いつまでたっても連絡がない状況に焦った私たちは、
急遽、スペインに渡ることを決断しました。
実現まで 〜スペインでゴンサレス研究の第一人者との面会〜
超強行スケジュールで、スペイン・フランスへの訪問を決行しました。
この時は、まだはっきり覚えていますが、もう精神的にも肉体的にもかなりのプレッシャーがかかっていました。
ヨーロッパとの時差は、日本時間からマイナス8時間。
すなわち、
ヨーロッパタイムでのメールや電話での連絡は、深夜になることが多く、
また、一刻も早く、契約を締結する必要があったため、よくうなされて夜中起きたりして、
心が一時も休まることがありませんでした。
このあたりから急に白髪が増えたと記憶しています(笑)
そんな状況の中、急遽の渡欧。
現地での通訳確保や、移動手段の調査、宿泊場所、その他要人へのアポイントなど、
半ば朦朧とした意識の中で準備を進めていました。
この時、特にネックになったのが、通訳でした。
私は色々とコネを頼って通訳を探したのですが、
結局、もうスケジュール的にもかなり差し迫っていて、
なんとかたどり着いた通訳の人も、予定的に、そして、案件の内容的に(重すぎて)、
難しいと判断をされ、断わられていました。
しかし、
通訳確保を諦めるわけにもいかず、半ばやけになっていた時に、
現地代理店と連絡が取れ、事情を説明すると、
「ひとり、素晴らしい通訳がいますが、問題があります」
と言うので、
「なんですか?」
というと、
「高いですけど、大丈夫ですか?」
とのこと。
「背に腹は代えられませんから」とかなんとか冗談めいて言っていたのだけれど、
値段を聞いて、
「なるほど」
と思いながらも即断即決。準備万端。
しかし、「こんなに重い交渉に行くのは人生初」
と、ようやく乗った飛行機の中でも暗澹たる気持ちで、
10数時間のフライトを終え、スペインに到着。
すぐ次の日、まずは、IVAMの館長を長らく務めた、
ゴンサレス研究の第一人者である、トマス・ロリェンス氏と面会しました。
バレンシアから車を飛ばすこと1時間の街、Denia。
ここからあの有名なイビサへの船が出ていて、リゾート地としても名高い場所だそう。
そんな浮かれた場所には似つかわしくないような、重たい交渉。
指定されたレストランに入ると、今までの好天が嘘のように、急に雲が出てきて、雨が降り始めました。
この時、この交渉に一緒に同行してくれた長崎県美術館の野中さんと共に、顔を見合わせて、苦笑いしました。
トマス・ロリェンス氏は時間通りに現れました。
とても素晴らしい紳士でした。
交渉は、ちょっと雲行きが怪しい場面もあったけれど、概ね順調に完了。
面会が終わった頃には天気も快復し、とても良い天気になっていました。
「明日のIVAMとの交渉もうまく行くだろうな」
そんな予感めいたものを感じていました。
実現までの数々の障害 〜 IVAMとの交渉、安堵、そして・・・〜
翌日、早朝からホテルのロビーに集まりました。
この日、例の通訳の人と初めて会い、そのままIVAMの交渉へと向かう予定になっていました。
事前にメールでやりとりをして、「優秀な人だな」とわかっていたので、
事前の打ち合わせもそこまで時間がいらないかなと思ったけれど、交渉に向かうまで1時間半の時間をとっておきました。
いざ、初めて出会ったのが、河田さんでした。
一言で言えば、「姿形は日本人女性、その他全てはスペイン人」
という感じの人。
とにかく元気で明るくて、そしてなにより、優秀な方でした。
こちらの雰囲気の重さや、任務の重さ、そして、こちらの合意したいことに対して即座に掴み取る能力。
私はまだ社長に就任したばかりで、自分で今思い出しても思うけれど、
「頼りない感じ」が漂っていたと思いますが、
河田さんがその雰囲気を変えてくれたと思います。
そしてたっぷり1時間以上ミーティングをして、3人でIVAMへと乗り込みました。
結果ですが、あっけなく終わりました。
こちらも用意周到に交渉のロジックを用意していたし、
目的を明確に共有し、話をどのように進めるかを事前に把握していたからという理由もありますが、
やはり「顔を知らないまま交渉を進めることへの不信」が解消されたことが一番大きかったのではと思います。
この時は、交渉が無事に完了したことに心から安堵したと共に、
とりあえずの大役を果たせたことに対して、少し誇らしくなったことを覚えています。
無事、交渉が完了し、結局河田さんには、バレンシアの街を端から端まで案内してもらい、
昼からビールでお祝いをして、バレンシアを満喫しました。
私はその日、その足でパリに向かうことが決まっていたので、
野中さんと河田さんと笑顔で別れ、ほろ酔いの中、空港へ向かいました。
「ようやく、安心できる」
ここまで来たのだからもう大丈夫だろうと思っていたのですが、
最後の段階でまた、スペインの大変さを味わうことになります。
しかし、その時の話をここで公開するのは、色々と問題が起きそうなので(笑)、
またいつの日か、その時がきたら書こうかと思います。
実現までの道のり
スペインからの帰り、パリでは著作権者のGrimminger氏に会ったり、
現地の画廊と商談したりして、すぐのちに、日本へ帰国しました。
帰国してからすぐに、交渉の結果を関係各所に報告し、
ある程度の目処がついたことに安堵しました。
この時、大変厳しい時に支えてくださったのが、世田谷美術館の元学芸課長の杉山さんでした。
交渉の経過を見守りながら、私たちに適時適切なタイミングで励ましの言葉をかけていただき、
本当に助けていただきました。
それ以外にも本当にたくさんに方達に応援していただきました。
どちらかといえば、嫌味や苛烈な言葉を言われてしまいそうな場面でしたが、
そのような対応をされる方は全くおらず、本当に救われました。
そして、
帰国してから、展覧会開催までは、本当にあっという間でした。
何か、安堵する時間もなくとにかくこの時は目の前のことに全力で取り組んでいた気がします。
今でもこの時の状況を思い出すと、その時の大変さがフラッシュバックする感覚がありますが、
しかし、この時を乗り越えられたことにより、確実に、精神的に強くなったなぁと思います。
写真で振り返るゴンサレス展@長崎県美術館〜岩手県立美術館〜世田谷美術館〜三重県立美術館
さて、2014年6月〜、無事にスペインの彫刻家 フリオ・ゴンサレス展が開催されました。
オープニングの日には、胸に迫るものがありました。
約1年にわたって4美術館で開催された展覧会でしたが、展覧会の最初と、撤去の最後の会場にきた
IVAMのクーリエが本当に良い人で、彼女に多くのIVAMの事情やスペインの美術事情などを知ることができ、
勉強させていただきました。
振り返れば色々とありましたが、私が本格的に展覧会に携わることになったこのゴンサレス展は、生涯忘れることはない本当に想いが深い展覧会となりました。
結局、この展覧会に関連して野中さんは2つの賞を受賞。重責を全うした苦労が報われ、本当によかったなと思いました。
今回の展覧会のイコンとも言えるダフネ@世田谷美術館は、本当に圧巻でした。
全ての会場の展示を見ることになるのですが、
やはり各会場の個性に照らして、ゴンサレス作品の良さをいかにして引き出すか、というのが、本当に難しいのだなと思った一方、各美術館の担当学芸員の方々は、やはりその点を熟知されていて、本当に素晴らしい空間を作り上げていました。
本当に素晴らしい展覧会になったと思います。
実現するまでに25年という月日を要した展覧会「フリオ・ゴンサレス」。
鉄彫刻の始祖として知られ、また、ピカソに彫刻を教えたとされる、スペインの巨星。
日本ではほとんど知られていない存在でしたが、
日曜美術館のアートシーンに取り上げられ、
また、日本美術界のドンのひとりである、高階先生による執筆記事が新聞掲載されるなど、
少なからず反響があったようで、ゴンサレスという存在が以前よりも広く知られるようになったことは本当に意義深かったと思います。
みんなが知っている存在について、それを総覧する展覧会ももちろん必要ですが、
あまり知らないけれど本当に良い芸術を広く知らせるという展覧会の役割こそが、本来は大切なのではないかと思い至った経験でもありました。
25年の月日を経て実現した展覧会。本当に終わってみればあっという間でしたが、先人たちが紡いでくれたバトンを最後に受け取ることができ、当展覧会を実現できたこと、本当に幸せに思います。
フリオ・ゴンザレスの略歴
1876年 9月21日、バルセロナにおいて末子として誕生。父コンコルディオは金工職人であり、父親の工房で職人としての修行を積み、家業を手伝った。
1892年 この年、バルセロナ産業芸術博覧会において、出品した装飾のドローイングが受賞。また、二人の姉とゴンサレスは、「金属製の花」により金属工芸部門の二等メダルを獲得。
1893年 シカゴ万博博覧会に兄ホアンと共同で装飾工芸とアクセサリーを出品し、銅メダルを獲得。
1897年 バルセロナのカサ・マルティの1階にカフェ「クアトラ・カッツ」オープン。若き日のピカソやガルガーリヨなどの芸術家や知識人が出入りし、モダルニスモの一台中心地となる。ゴンサレスも兄ホアンと共に同カフェに通う。この年、プラド美術館を経由し、一家で初めてパリに訪問し、画家を志す。
1899年 パリへ滞在。1900年には、ゴンサレス一家はバルセロナの工房を売却し、パリへ移住。この時、パリ万国博覧会が開催され、アルマ広場ではロダンの回顧展が開催される。この年、ピカソがパリのモンマルトルに。この頃からピカソとゴンサレスの交友が始まる。
1902年 ピカソと共にバルセロナに滞在。この時、ピカソがゴンサレスのポートレート<ディビダボの丘のフリオ・ゴンサレス>を描く。
1908年 兄・ホアンが死去。この頃、ピカソとの交流が途絶える。
1915年 この頃、モンパルナスのカフェ「クロズリー・デ・リラ」に通い、モディリアーニ、ブランクーシらと知り合う。
1921年 <女のマスク>が国の教育・美術者に1000フランで買い上げられる。この頃ピカソと再び連絡をとるように。
1922年 ギャルリ・ボヴォロツキーにおいて初個展開催。
1925年 ブランクーシのアトリエでアシスタントとして石膏像用の枠組制作などを実施
1927年 この年、初めての鉄彫刻とされる<農婦のプロフィル>を制作。
1928年 ピカソが、彫刻制作のためゴンサレスに連絡をとり鉄の溶接の技術提供を依頼。その後、二人のコラボレーションは少なくとも1931年まで続いた。
1931年 サロン・デ・シュルアンデバンダンに鉄彫刻8点を出品し、同じく作品を出品していたアレクサンダー・カルダーと共に大きな反響を呼ぶ。以降、様々な場所で個展やグループ展などに出品し、大きな反響を得ていく。
1937年 <モンセラ>(1936-37)がパリ万国博覧会のスペイン館のメイン階段横に設置される。
1942年 アルクイユの自宅にて心臓発作のため死去。享年65。ピカソらが葬儀に参列。
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