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イギリスの彫刻家・ヘンリームーア(Henry Moore:1898年7月30日-1986年8月31日)。

イギリスを代表する彫刻家であり、日本にも多くの作品が設置されているムーア。

今回はこのムーアが世界的な彫刻家として愛されるようになった道のりを7つの観点からたどっていきたいと思います。

 

 

1.彫刻家・ヘンリームーアとは?炭鉱夫の息子としての生い立ち〜戦争経験まで

ヘンリー・ムーアHenry Spencer Moore)は、ヨークシャーのキャッスルフォードで、炭鉱夫の息子として生まれました。父は炭鉱夫としての生活が非常に重労働であり、息子にはそのような生活を送らせたくないという理由から、高度な教育を受けるように仕向けていました。

そのため、ムーアが彫刻家になりたいと言い出した際には、強く反対したそうです(肉体労働だから)。

結果、父の反対を押し切れず、一度は学校の先生として働くようになります。その後1917年、18歳の時に第一次世界大戦に駆り出されることになり、毒ガスを受ける経験をしました。

幸い、間も無く回復し 、1919年にリーズ芸術学校の彫刻科の最初の生徒となり、スタジオを与えられます。

この時期からモダニズムに傾倒していくとともに、彫刻家のバーバラ・ヘップワースと出会い、これ以降、終生の友として、ライバルとしての関係が始まりました。

 

 

2. ムーアが人生をかけて挑んだ2つのテーマとの出会い

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(箱根彫刻の森美術館)

1921年、ムーアは、ロンドンのロイヤルカレッジの奨学金を得ることになりました。それまでの彼の作品は、ロマンティックでビクトリア朝風の作風でしたが、ヴィクトリア&アルバート美術館や大英博物館の民族的な所蔵品に触れることにより、その作風は変化していきました。

ムーアは1955年に当時を邂逅して以下のように語っています。

「私は、学生の時でさえ、頭の中は彫刻のことですっかり支配されていました。というのも、当時は大英博物館に入り浸り、”完全な円筒形現実主義”とは異なる「原始的な彫刻」がそこに数多く存在していたからです」

彼はその後すぐに、2つのテーマを思いつきましたが、それらは彼の終生の彫刻家人生を捧げるほど大きなテーマでした。

1つ目は、「母と子」です。アフリカン・アートの思いやりや慈悲と、キリスト教のイメージとを融合させることにより、彼独自のスタイルを形成していきました。

2つ目は、1924年、パリで石膏のチャクモール(古代メソアメリカの人物像)を目にして受けたインスピレーションでした。それは「横たわる姿」との出会いであり、ムーアにとって2つ目の大きな彫刻のテーマとなりました。

 

 

3. ダイレクト・カーヴィングとの出会い

その後、原始的な彫刻との出会いに加え、コンスタンティン・ブランクーシや、ヤコブ・エプスタインらの作品との出会いをきっかけに、1920年代前半から「ダイレクト・カーヴィング」(直彫り)の手法へと制作方法を切り替えていきます。

ダイレクト・カーヴィングは、英国の彫刻史上では非常に革命的なできことであり、ロイヤルカレッジの有望な3人の彫刻家によって取り入れられ制作が行われるようになりました。

その3名こそが、ムーア、ヘップワース、そして、ジョン・スキーパン(ヘップワースの最初の夫)でした。

ダイレクト・カーヴィング(Direct carving)とは、それまでの通常の制作方法であった、マケットや粘土をつかった制作を行わずに、直に、大理石や木といった素材を削ったり切ったりをしていく制作工程であり、「truth to materials」(素材の良さを最大限に生かした制作)と呼ばれました。

1928年には、ムーアにとって初めてのパブリックアートとなる「West Wind」の制作を行いました。これは、ポートランドの石を彫刻したレリーフであり、ロンドンのBroadwayに設置されました

(作品参考URL:http://ornamentalpassions.blogspot.jp/2009/10/london-underground-55-broadway-sw1_30.html

 

 

4. シュルレアリズムとの関わりと、ブロンズ作品制作の開始

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(東京都庭園美術館)

ムーアは、1936年にポール・ナッシュによる「Unit One」に参加し、国際的なシュルレアリストの展覧会の委員会の組成に関与することになりました。ムーアは、シュルレアリズムのムーブメントとは一線を画していましたが、ジャン・アルプのような国際的なアーティストとの関わりを持ちながら、そのムーブメントの一角である、抽象的な造形物の可能性については興味の対象であり続けました。

ムーアは常に、「形状」「形式」や、人間と景観との親和性といった論点に大いなる関心を寄せていました。

しかし、このシュルレアリズムの「無意識」に関するムーブメントに触発された結果、「さらなる抽象」へと突き進んでいくことになります。また、この時期にはブロンズでの作品制作も行っていくようになりました。

これにより、ダイレクト・カーヴィングでは実現できない「エディション」(一つの原型から複数の作品を鋳造すること)での制作が可能となり、結果、屋外での大規模なパブリックアートの設置を行っていくようになります。

このような段階を通して、彼の作品が多くの目に触れることとなり、大衆にもその作品が広まっていきました。

 

 

5. ムーアの成功に欠かせなかったパトロンの存在

ムーアが成功した要因のひとつに、Kenneth Clarkによる多大なる支援がありました。

Clarkは、美術館館長、アート歴史学者、そして、ブロードキャスターでもある著名な人物で、ムーアの作品を大量に購入しました。ムーアはClarkについて、

「私があなたに手紙を書く時はいつも、あなたが私にしてくれたことに対しての感謝ばかりのように思う」

という手紙を残しており、Clarkがムーアの成功にとって不可欠な存在だったことがうかがえます。

 

 

6. 戦争と平和、若手彫刻家集団による批判

 

1940年に、スタジオが爆撃され破壊されたムーアは、ロンドンから郊外のマッチハダムという農村へと疎開します。結局この場所が終生の安住の地となり、その後もこの拠点を中心に活動を続けました。

その後、戦争も終わり、1948年にはヴェネチア・ビエンナーレで国際彫刻賞を受賞するなど、国際的な認知を得るようになっていきました。英国の彫刻家として世界的に有名になり、ムーアの作品が多くの公共施設を中心に導入されるようになるとともに、これに反対するような動きも出てきます。

1952年に開催されたヴェネチア・ビエンナーレの英国パビリオンでは、「New Aspects of British Sculpture展」(英国彫刻の新たな局面)という、ムーアやヘップワースへの挑戦と言える展覧会が開催されました。

この展覧会は、英国の若手彫刻家8名を中心としたグループであり、美術批評家ハーバート・リードによってつくられた「Geometry of Fear」として表現される彫刻家集団によって開催された。この集団は、ジャコメッティやジェルメーヌ・リシエといった「ヨーロッパ戦後彫刻」に問題意識を持った彫刻家たちの動きと同期していました。

ムーアはこのようなムーブメントを物ともせず、1950年代は一貫して「家族」をテーマにした人間味あふれる作品を制作していきました。

 

 

7. 次世代のアーティストのために

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(山梨県立美術館前)

ムーアは、公共空間への作品設置ならば、ということでたくさんの作品を設置しました。

特に1950年代以降は屋外空間での作品設置が増加していきましたが、例えば、1958年にはパリのUNESCOでの横たわる彫刻像、1962-65年には、ロンドン議会広場など、重要な場所における作品設置を手がけました。

また、同時に、多くの助手を雇い、アンソニー・カロなどの若き彫刻家もムーアの元で制作にたずさわりました。

そして、1970年後半までに、40以上もの展覧会が毎年のように開催され、その晩節を過ごすことになりました。

ムーアは大きな成功を収め、財をなしましたが、その暮らしぶりは質素なままでした。

その財産のほとんどを、後進のアーティスト育成のために1977年に創設された「ヘンリームーア財団」に捧げ、生涯を終えました。

(記事作成参考URL:http://www.christies.com/features/Henry-Moore-7437-1.aspx)

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